昭和46年01月22日 夜の教話
(途中から始まる)
【信心は次元を高めること】誰かが電気すとっと外から消してしまいました、真暗になっていますね。けれども外の方のなあにも電気を誰かが、消やし忘れてるんでしょうね。もう外の方の石油ばこう入れる所、あちらの電気でまあまあ明るかったんですけれどね。そしたら今度は千恵子さんでしょう。又あの石油ば入れ行きよるもん、あちらにそして今度帰る時またチラッと向こうんとまで消えてしもうて、愈々真暗の中に。
今日はもう本当しみじみ、あの椛目の便所にも電気がなかった、風呂場はなおさらなかった、あの表の明かりで風呂入りよるというの思わせて頂いてね。もう有り難いものが一杯込み上げて来るんですよね。私は信心というのはそれだと思うんですよね。そのいわゆる次元の違った考え方と、そういう考え方だと思うですね次元が違う。ですから「こらこら俺が入とっとが」ちから、俺だからよか様なもんですが、誰か入っとらんと思うて消しよるんじゃから。
ああそいだからすいませんいうて、点けてくれる。それではそれまでですからね、そこであのほら消したつば、わざと憎たらしいからと思うて、消したっじゃなかっですから。そこから何か頂こうとする姿勢ですね信心とは。そこからがもうとにかく明るくして入っておったのでは、味わえない有り難いものが一杯でね、お風呂は惜しまわせて頂くことが出来るでしょう。
だから結局一時が万事に信心とはそうだと思うですね。それであの今末永さんが、ご神徳を頂きたいというか、信心を一生懸命であの一人でお伺いに来ますからね。久留米の西田先生が、「神徳学は別もんだ」とおっしゃるのは、本当にそうですから。私の知っとる限りことは一つ一つ教えようと思って、教えております中にね、しまつ倹約をしろと言う事を教えよる。
もう本当に別の教科の中でも、それを感じさせる、いわば今日私もおかげそのためあったんですけども、いわば外のほうの電気なんかは、もうきちきち、七年間ですね。もう必要じゃないところのものは、もう電気は使うちゃならん。こらもう電気だけじゃなく、もう一切、もう本当に始末倹約をするね。あの気持ちがなかったら、第一ご神徳を頂くという、その努力次第で、そんなことが出来ても失態の失態。
私その中にはもうこの人が、お徳を霊徳を受けるということでは、いろんな私の事を、今、教えよりますから、それを箇条書きにして、ずうっと勉強して行きよる訳ですけどね、それをやっぱ特別学問ですから、「特別に教えてください」と言わなきゃ教えられるもんじゃないです。日頃例えば私が平気で言いよることの中にも、随分あるんですけれども。それは皆が迂闊にして、(音声切れ)
かという事のためには、私共の何でもないことですけれども、それをいっちょいっちょ、表わして行かなければ頂けないですね。まあ例えば皆さんでも本当にご神徳、御霊徳を受けたいなら本気で始末倹約することね。始末倹約をするという事はどう言う事かというと、あの『贅沢はせんぞと、非道はせず』と言う様にね、非道はしないと言う所をね、もう何時も心掛けとかなければ駄目。
もうこんくらいなこともうそれではもう、そこからあの神様との交流は燃えてしまいます。ですから、だから神様がくださるものは、本当に有り難く頂かにゃならん。けれども、願えという所、皆がそれこそ、霊徳に触れられない人達は、そういうところを非常に疎かに致します。もうそこにそんどころ、あのお粗末にしますね。
御かげを頂きました。